廓然無聖

今日は昨日より寒くないので何かできそうである。
アリストテレス政治学』を全集で読んでいる。中々面白い。
三日に一遍のペースで画業の成果を上梓してきたが、ここに至って少々疑問を感じている。三日に一遍というのは、無理のないようにと考えておおむねそのようにしているのだが、傑作でもないのに三日に一度現れてさあご覧と言ってみても、読者が喜ぶことは稀である。だったら一週に一遍にしてみるか。夫れとも一月に一遍にしてみるか。固より昔はそんな感じだったのである。(ここで過去の痛い絵を渋で振り返るのは痛いのでやめる)
渋における読者は、ブルスクがお気に入りのようだ。チナミに至っては何がお気に入りなのかさっぱり分からない。もちろん、ブルスクばかり描くつもりはない。ブルスクは単純な色をしているからあたかも塗り絵のようにサッサと仕上げられる、と誤解している向きもあるが、そんな単純なものではない。きちんと人体の構造を計測して初めて画業である。
痛い絵を晒し、恥をかいて、そうして上達するという強攻策をとってきた。しかし上達するではなく上達したような気がしただけである。半年だからそうすぐに結果は出ない。つい最近になってペン先を太くしてみた。そして筆圧により描線がちゃんと変化をもつようにしてみた。今迄は目一杯細いペン先で、後先考えず無闇にギューとペンを押しつけていたのだ。これは手の健康にも良くないことである。タブレットペンをGペンのように構えて使用するのが正しいということに、ようやく気づいた。しかしそれは本物のGペンを使っていた時の作画法に戻るということであり、絵の雰囲気から何から、元に戻すということになるのだ。半年間の迷走の末に辿り着いた結論であった。
結論が出たからすぐに画業を再開、ということにはならない。イラスト業よりも漫画業のほうが性に合っていると感ずる。漫画もモノクロで16ページを四週間で描いたが、反響に乏しかった。いっそ丸一年かけて60ページぐらいの長編読切りを仕上げたほうがいいのだろうか。
それでも、若干のイラストのストックはあるので、気が向いたら上梓して参りたい。ストックは必要である。精神の安寧の為に必要である。しかし(自分で決めた)締切に追われながら制作した絵というのもそれはそれでまずくはない。ただ精神の安寧は失われる。
この程度の記事は全然長文ではない。長くかけば原稿紙20枚ぐらいにはすぐなる。しかしきりがないのでここらで已めておくつもりだ。