趙州狗子

昨日は、キャラ立ち大事! と書いたのだが、それ以前にテーマの方が大事である。
お話のテーマは、作者の生き様を反映している場合もあり、反映していない場合もあると言えそうだが、やっぱり少なからず反映していると思われる。
誰か余の一連の漫画作品について、どんなテーマがあると思われるか批評してくれませんかね。
例えば「はなぐみ」は全10話ぐらいだったと思うが、コミスタで頑張って描いたもので、今でも余のサイトで閲覧できるようにしてある。
もろもろの事情を勘案すると、余が久々にしがらみなしに作った漫画が「ゆりまん」であることは疑いもない。「フックオフ」とかは、やっぱ古本屋を出さなきゃならないし、という縛りがあったので一応しがらみがある。
「ゆりまん」は極めて自由な漫画のはずなのだが、どうしてスク水ブルマーという方に話が偏ってしまうのか?
「ゆりまん」は、美少女イラストを半年練習している過程で偶然生まれた産物である。つまりそれ迄の余の漫画は、手慰みにすぎなかった。しかるに今度は画力も多少上がったし描くのも速くなったはずなので、そういう状態からスタートして一体どんな漫画ができるかと楽しみにしていたが、4話目にして中断となった。おまけに今はイラスト業も休んでいる。
イラストの上達に限界はないと思っているが、闇雲にやってもダメだろう。そもそも半年ですぐに結果を出そうとするのが間違っている。しかるにイラスト業を休んでいるのは、季節要因もあるが、余の本能がこれじゃないと訴えかけているのではないだろうか。
冒頭のテーマの話になるが、「チサト日和」とかはテーマがはっきりしている。読者にとってさっぱりでも、余にとってはっきりしているからそれでいい。「フックオフ」はどうだろうか。「会誌の売上を一部でもいいから増やしたい」というのが偽らざる心境であったし、他にすることもないから闇雲にやっていた。
テーマをぼかしたままにするのはサブカル的な手法かもしれない。テーマがあっても、前面に出さないで隠したままにしていれば、読者は色々勘ぐりしてくれるものである。しかしそれは作者として卑怯である。やっぱり第一話を読んだ時点でクリアにしておくべきである。
「おんなのこボタン」というR−18の漫画が渋に全部載っているが、これはこれで24ページ読み切りの、無難な作品である。ただ絵が旨くないので魅力がないだけである。
24ページといえば、昨年発表した「チサト同好会」も24ページ読み切りである。実を言うと「チサト同好会」みたいなのを一年に一作制作できれば、もうそれで満足なのである。しかるに、「余はもっとできる」という根拠のない自信とか、或いは「コミケ後パワー」みたいな力のため、それ以上やるべきだという気持ちになってしまうのである。
お話作りの為のインプットは欠かしていないはずなので、当分お話の種に困ることはないと思われるが、種をまいて水をやり育てることに疑問を感じていてはだめだ。かといって新しい企画をビーズ玉のように次々と撒き散らすことは不体裁なのでやりたくない。やっぱり一つ一つ鳧をつけるべきだ。「ゆりまん」も絶対このままでは終わらせないつもりである。