コサワヤ

漫画の主人公は、弱点を持っていることが必要である。

余は最近、しんじつ美しい人間が描写できたらなぁと思っていたが、しんじつ美しい人間というのは、己の弱点をよく知悉し、それを恥じたり隠したりしている人間だという考えに至った。

要するに、弱点のことをさて置いて、ただトルストイ伯のように説教口調で滔々とまくし立てる主人公は全然美しくないということだ。

さらに、そうした主人公の弱点を見て、読者はかれ(かの女)を侮るわけであるが、主人公のほうは侮られつつも、真面目な己の言動によって、周囲の人物に己を訴えかけるのである。

現代の、個性の過度に発達した人種は、相手の説教を生のまま受け入れることは極めて六つかしく、寧ろ相手を侮りながらのほうが、すんなり説教を受けられるものである。

無論、説教ばかりする必要はなく、結局は真摯さという一般的な名辞になってしまうが、兎も角も真摯であることは必要だ。

さて、このブログを幾人かの読者が見ているが、余から新たに開示すべき情報は何も無い。自分の漫画を、全くロハで公開するか、課金制で公開するか、それとも全く公開しないか、どれかである。余はこれ迄読者のために尽くしてきたという気持ちがあり、渋などで応援のシグナルを受け取ることもあるが、何か対価をこれ以上得たいというわけではなく、寧ろ、顔も名も知らぬ人びとに己の問題意識について漫画によって発信するということに、新たな意義を見出さない限り、画業の進歩はないであろう。

コミュニケーションが苦手な女の子が、頻繁に漫画に登場するが、これは単に二匹目三匹目のドジョウを狙っている丈で、人間というものに関する深い考察も何もないことは明らかである。

スマホの力を過信したな

余は思料する。人間同士は、元来分かり合えないものである。言葉・文字を介してすら分かり合えないのである。それでは、言葉・文字を廃して交流すればいいのだろうか。

一体それはどんな交流なのか。まあ一緒に何か活動をするということになる。言葉・文字は相互理解を阻害する。言葉を発しない活動こそが共感を生む。

この程度のことは、今更指摘するまでもないことだが、昔時は己の漫画作品に「孤立せよ」というメッセージを込めていたこともある。ただ、それ丈では行き詰まってしまったので、近年の「はなぐみ」「ゆりまん」のようにハグや会話のある漫画を作ってきたのである。

何か考えがあっても、ただ貯め込んで、将来の自作の為に秘蔵しておくという態度はあまり褒められたものではない。時間の守銭奴みたようなものである。だがしかし、「ななかさん」3巻にもあるように、現実から全力で逃げ続けるのが作家であるとしたら、それも仕方なかろう。

漫画もテレビ漫画も、セリフあってのものだから、会話・対話が入っている。言葉を交わすことには希望がある。今となっては「孤立せよ」という幼稚なテーマを振り回すことはないが、新しい作品にはれっきとしたテーマを立てるつもりである。

悪魔の館

『ななかさんの印税生活入門』第3巻を購求した。これは誠に優れたギャグ漫画であり、現代の青春群像と呼ぶべきものである。余も勿論、できることなら斯様な漫画を制作したいものだが、現在構想中の作品にはあんまりギャグは出てこないかもしれない。

青春ものというと、まあ大抵は中高生が主役となるが、今迄は何となく女子高生が好きだから女子高生をメーンにしてきた。だが中学生でも不味いわけではないが、やはり身体の発達度合いが異なるわけであるし、実際、中学生たちを描いた「こち梅」では豊胸を描くことはできなかった。

無論、豊胸かどうかは、作品の出来不出来にはあまり関わりがない。『ななかさん』はラノベ作家を目指す人びとが集う文芸部が舞台であり、小供らしい発想や、オタクネタの入ったギャグが多い。

余は、かかる部活に入ったことがない。そもそもそんな部活は存在しなかったし、新たに部を作るという発想も全くなかったし、仮にそんなことを試みたら教員から目をつけられてしまったであろう。田んぼや畑、百姓の倅、そういったものと縁のない土地に生まれたのなら違ったことをしていたであろう。

創作するなら、絶対に漫画でなくてはいかん。ラノベなどとんでもない。昨日も下らんラノベをたまたま読んでいて、活字というものの四分類について考えたところである。すなわち、哲学や思想、小説、情報、その他、という四分類である。

『ななかさん』に描かれる情景は、漫画の中だから楽しいのであって、現実にこんな中学生たちはいないだろうというのは当然である。だがしかし、読者には読者の人生があるのであり、吾人画業者は、せめて紙面の中でだけでも夢を見たいという読者の為に提供するのである。そしてまた、画業者自身も癒やしを得られるようなものでないと、中々長続きできないであろう。

ジブラルタル海峡

現在、余が記事を書いているのはこのブログ以外に一切ない。5chなんぞにも書き込んでいない。

昨年末に出してもらった8ページの漫画にも反響はなかった。だとすると、向後発表する漫画には、果たして読者がつくのかどうかという心配がつきまとう。

そもそも日記や雑文のたぐいは、余にとってみれば己の為に書き綴ってきたものである。読者を(最初は)想定していない。しかるにちょっといい雑文ができるとこりゃ面白いかもということで公開してきたのである。

トゥイ活などで一時的に炎上したりして多数の閲覧を得ることは、誰でも一生に一度はできるかもしれんが、常住不変な閲覧を得ることは極めて六つかしい。

茲で発想の転換が必要である。希少な宝石とか出版物とかは、希少ゆえに高額で取引される。一方、ネット上の記事などはURLさえ分かれば全然希少でなく、価値はゼロに近い。

普通は、ものの本などに、多くのフョロワーを得る方法とかが書いてあるものだが、余はそんなものよりも、希少なネット記事という概念を提唱したい。読者の極めて少ない乃至ゼロというネット記事のことである。希少ではあるが価値はゼロに近い。これはどこか間違っているかというと、どこも間違ってはいない。だが希少であり且つ価値がゼロというのは、古今来そんなものがあったであろうか。ネット普及以前にもそんなものはあったであろうか。

続きは次回への宿題とする。

龍神池

漫画の題名は、その第一話をちょろっと読んだだけで、「なるほど」と得心のゆくものでなくてはならない。

しかるに、評価の低い漫画には、題名がシンプルすぎたり、凝りすぎてわけが分からないものも多い。

フェイタライザーとかな!

余が計画中の新作には仮題がついているが、かなり曖昧な語であるのでちょっとこりゃ駄目だと思っていたが、内容がやはり曖昧模糊なものだとしたら、曖昧同士、相性がいいのではないかと思ったのも事実である。

まあそれは冗談である。しかし好きな言葉をそのまま題名にするのは悪いことではない。

いずれにしても、コンテを切ったりする実作業は四月以降になるであろう。色素は沈着するだろう。

360デニール

御案内の通り、10連休があるので、それを目がけて制作を進めたいと考えている。

実務的な話をすると、漫画を制作する方法はいつもと同じになろうが、それを発表する方法については慎重に考えなければならない。

今迄のような方法は採らないということである。つまり、ネットでロハで見られるようにするのはやめたいということだ。だとすると、ブラックボックス(覚え違い)などの課金制サービスを利用して有償公開するか、あるいは薄い本を作るか、二通りの方法が考えられる。

余としてはブラックボックスも悪くはないと思うが、継続して課金されるシステムであるから、余の活動もまた継続的でなくてはならず、これに反するような怠惰をしていると読者から見限られる恐れがある。

薄い本についてはこれまで何度も作ってきているのでノウハウがあるが、けだし、即売会には行けないので、ブース販売ということとなり、ショボい売上しか期待できない。

どちらにしても、ネットで活発に宣伝しないと、有償で読んでもらうことは六つかしい。然るにそれは面倒だ。だが完全無料公開となるといつもと全く同じ事になり、つまらない。

flea Illustratorの地位は返上したい。

240デニール

 お話には叙事詩とか喜劇とか悲劇とかがあるが、(主要)登場人物が人間として徳の完成へ向かうようなお話にはあまり出会うことができない。
 ちょろっと見たテレビ漫画などでも、人間の心の美しさに触れる機会はある。しかしその美しさが発展してゆく過程を見ることは極めて稀であろう。
 なぜなら、そういう一山いくらのお話では、何よりもキャラ立ちが必要だが、それは読者にとって分かりやすく恒常的なパーソナリティを持っているということだからである。
 漫画キャラも、漫画作者も成長しないのなら、一体何のために彼ら彼女らの追っかけをする必要があるだろう?
 尤も、連載を継続中のものなら、それは商品であるし、又金づるであるし、できるだけ読者の人気を繋ぎ止める必要があるのはもちろんである。
 徳の完成は無理としても、登場人物の心がしだいに(良い方向に)変化する話を見たいわけだが、それすら無理だとしたら一体何のために物語を求める必要があろうか? しかしそれを実現するためには何十巻という冊数が必要なのである。