すまんぬわー

画業を、とりあえず一年間継続してやれれば、実績にも自信にもなるであろう。

本来なら、画をかきながら一々参考書を参考したりして、紆余曲折を経て完成へ向かうべきかもしれないが、余の方法はそうではなく、むろん図書の参考事項を頭に入れておくのであるが、実作業は一気呵成にやってしまう。だから完成した画を改めて見て、どこそこが失敗だったと後々から気づくのであるが、かかる画の修正をチマチマやるのは性に合っておらん。だから次の作品に取り掛かって、今度こそは失敗しないぞと自分に言い聞かせてやるのである。

余がどのような画を目指しているのか、はっきりしたことは言えないし、自分の画を見てこれこそが理想だ、などと言うこともできぬ。唯だ添削を受けているわけでもないし、全て余の感官によって判断しているから、他の画工の画を適宜見て、新たな表現や自分の未達の表現に気づかされ、そこから理想的な画を目指して白いカンバスと取っ組んで描いていくのである。

渋というサイトは兎に角読者数が多い。だから0か1かでなく、評価の量が分かりやすい。失敗作だなと思って上梓した画はやはり失敗するし、自信を持てる画には評価が多くつくものである。独学の余にとっては誠に有難いサイトだと思っている。

一方、SNSの類いは余の性質とあまり親和性がなく、特に見も知らぬ者に言葉を介して情報を伝えるのは荷が重い。だから今は画を投稿したという事実と、当該URLとを投稿している。

つい先日、ぼかしツールの効果的な使い方について自ら発見した。向後も勿論、新たな発見をし続けなければならない。なんたらチュートリアルという画業本も、参考すべきかもしれない。

画を描き進めるモチヴェーションも、開始当初とはやや色彩を異にしている。委しくは省略するが、オニャノコを描出してゆく以上、当該オニャノコに無関心ではいられないどころか、魂を込めて描画するべきであろう。一方でさまざまな外見のオニャノコらを描画してゆくことで、その中で余の特に好む要素が見出されたりして、飽きることがない。

わざとじゃないんだよ

ちょうど、某所に記載したように、「光と影」の描写に力を入れてゆこうと考えている。

尤も、かっちり衣服を着込んだ画よりも、裸体に近いほうが光と影を描くのが楽しいので、当面はまず裸体に近い者を、光源に気をつけて描いてみる所存である。

元来、余はポージングに心血を注いできたが、同じポーズでも光源によって印象が全くガラリと変わるのであってみれば、向後はあんまりポージングのネタに困ることがないのではないだろうか。

オニャノコを美しくリアルに描くことは宿願であり、今迄惰性で塗っていたのは主に陰影である。だがしかし、光によるテカリも適切に描写できれば、よりリアルになる。

そもそも光が強いのは屋外であるから、屋外のシチュを描いた画を向後増やしてゆきたいが、別に室内光でも光源には違いないから、旨い画工の画を参考したりして、しだいに上達して参りたい。

線画の色や太さは全然変更していないが、特に不便を感じないということは今のままでいいのであろう。濃い茶色の線で、クリッペのGペン・0.5ミリメートルという設定でいつもやっている。

もちろん、セーラー服やブレザーなどの衣料も並行して上達して参りたい。こういう濃い色の衣料も、描き方によってはちゃんとメリハリのついた塗りになるはずである。

体操服のシワは、そんなに六つかしいものではないが、あんまり繰り返し描いているとシワの形も固定化してしまい、飽きてしまう要因となる。立体であるシワを正しく把握し、それに当たる光、できる影を確実に描写してゆくことが求められる。

あと、ラフ画をスイスイ描き進められる場合も時にはあるのだが、そういう場合は往々にして重大な見落としをしていることがある。遺憾ではあるが、スイスイ進む時こそ、注意力を最大限働かせ、見落としを防止することが必要である。

つまりお姉さんのせいです

今年が終わろうとしている。

画業は順調である。巷には七年だか毎日画を上梓しているツワモノがいる。

ともあれ、好きでなければ続けられないものである。

余は昨年、漫画をうかつにも始めてしまったせいで、画や作話が嫌いになり、画業を中断してしまった。

気の向いた時だけやるのなら、楽しい楽しいで済むかもしれないが、継続して半年、一年、やるのなら、楽しいだけでは続けられまい。そこで、達成に応じたマイルストン、ご褒美みたいなものを用意しておく必要がある。幸い、大勢が見ている投稿サイトがあるから、そこに投稿し、評価がどんなものかを知ることができる。

余としては、それぞれの画に愛着があり、全てを上梓してゆきたいけれども、失敗作もけっこうある。目利きの力によって、失敗作は闇に葬るしかない。

その結果、そこそこ満足のゆく画だけを上梓しているから、いっそう巷の評価というものが楽しみであるし、閲覧数が平均して伸びているだけでも、やり甲斐を感じられる。

三年継続できれば、それなりの者となることができよう。

ビデオカメラ買わなきゃ

一ヶ月ぶりに記事を物すわけだが、某SNSではお気に入りとかされるとポコッと通知音が鳴るのが面白い。

余はこの某SNSにも画を投稿することとした。どうせロハでやってることだし、大勢の目に触れるようにすることは、理に適っている。

さて、一ヶ月前の余はどんなんであったか。今現在の余はどうであるか。それを表現するには文字はあまりにも無力である。

今迄、言わなくていいことをわざわざ言って、面倒を招来することが多々あった。このことから学習し、言うことは最小限に抑えるべきだと考えるようになった。だがしかし、画に関する一般論なら、批判とかではないから、適切に運用する分には問題ないであろう。

VOWというものがある。余とVOWの関係については、字数の制約上述べるのを避けるが、VOWというものはチクリ、或いは陰口のたぐいと似ていないだろうか。誤植とかヘンな看板広告とかをわざわざ収集して、まとめて本にするというのは、如何にも日本人のやりそうなことである。

VOWの本に載ってる、下手なサブカル系イラストを見た時に、画ってこんな下手でも商品になるのか、と感心した覚えがある。しかしそんなことに感心していては不可ない。志を高く持ち、けしてサブカルに負けないぞ、という鉄の意志を持つことが必要である。

漫画の運用については、読者を敵視してはならないというのは当然のことである。また、読者を舐めてもいけない。とはいうものの、テレヴィ漫画とかの最新流行について聞きかじるに、読者の資質が変化してきたよなあ、と思うことはある。下らないことを楽しめるのは良いことだろうか。崇高なものに憧れることは悪いことだろうか。

まあ、画工として身を立ててゆきたいのなら、現今ではとにかく押し黙る必要があるだろう。いいねRTも最小限にすべきである。

びっくりしたなあ

このウェブログと、どこかのサイトが繋がっているわけではないが、著者が同じということでチェックする読者もあるだろう。

余は昨日、画を上梓した。オニャノコを描いて提出するのは、なんだか嫁に出すような心持ちがする。おなかの描き方は、画工それぞれ異なっているものだが、誰でも写真資料を参考し、他の画工の表現方法を学び、而して理想のおなかを描き出すことになる。

ポーズ集には、明確に光源の位置が示されておらず、画工が自ら検出しなければならない。写真の背景はふつう白いから、光源からの光と、背景からの反射光とがあり、これに環境光とかなんとか、より複雑な光が飛び交っているのである。

マンガ画であるし、基本的には人体構造を押さえつつ、魅力が最も高いと思われる表現をまねていく、その中で自分なりの表現方法を見つけるというのが、最適な画業といえるだろう。

先般のスク水画、そして今般のおなか画は、余の画業に転換をもたらすと考えている。唯だ焦っては不可ない。すぐにでもフョロワーを増やしたいのなら、トゥイ活をして拡散する必要があるが、それをしたくないから、急激な画業拡張は不可能である。

又画工みんなが鋼鉄のメンタリティを持っているわけではないから、うんざりするような競争の中で、第一線に位置し続けることは困難を極める。

とまれ、画をかくことは歓びであり、自らの描出したオニャノコが最も可愛いのであるから、本当にこの活動が出来ることは天の配剤としか思えない。

昨日は全く思いもよらなかった可愛いオニャノコが、今日は余の目の前に登場している。こんな奇蹟を度々起こすことができれば、これ以上のことはない。

何のコスプレですか?

余は画業に関して未だ金子を受け取っていないから、全く自由に画業が出来るのは有難いことである。

尤も、課金制サービスといっても基本は「クリエイターが自由に創作するのを助ける」という意味合いであるから、毫も遠慮する必要はない。

文字通り、毎日画を投稿するツワモノもいる。オニャノコのポーズとか、背景とか、シチュとか、毎日作ってゆくのは大変だろうなと想像がつくが、人間に不可能なこととは思えず、実際不可能ではない。

オニャノコ一名を中心に据えて、あれこれ空想して、画を物してゆくのは、極めて楽しい行為である。出来ることなら支援者にこの楽しみを分けてあげたい。完成した作品は、画工にとってもう終わった作品であり、輝きを徐々に失ってゆくものである。画業の神髄は制作過程にあり、永年精励して携わっている者でないと分からないものがある。

最近は隠れ垢に何やら書き込むことが多いが、ブログに書くようなことをそのまま書いているから、どちらでやっても大差はない。

余は画業の実作に関して語ることが多いが、それは自分にしかできないことを述べて悦に入るつもりではなく、唯だ己の発見したことが読者の参考に資するものではなかろうかと思って、ちょっとずつ語っているのである。

絵が旨くなりたいとか、もっと生活者としての本音を語る方が、一時的に読者に興味を持たれると思うが、やはりそこには人格というものが出てくる。好かれる人格もあればそうでない人格もある。好かれる者がいい者とは限らない。

本垢で何ら意見を述べないことも、定着してきたのは良いことだ。あんな所で意見を述べても、宇宙のチリみたように、極めて影響力が小さい。予想外のインプレッションを獲得しても、大概は失望をもたらす。

余の画のレヴェルが、少しずつ引き上がっていることは既述のとおりである。三ヶ月の継続が、人間を成長させるし、六ヶ月、一年とやればもっと成長する。余は昨年の地道な努力が下地にあると推量する。出来のいい画を見て回ることも勉強となる。SNSを見ると世の中は画工ばかりだと思いがちだが、そんなことはなく、描けない者、下手な者のほうがずっと多いのである。

そうだな!

昨年12月に描いた絵で、紙にプリントしたものがあり、ノートに挟んであったのを発見したのだが、裏から透かして見るととても残念な気持ちになった。

今となっては、さすがに上達しているから、ちょっと裏から透かしたくらいで残念になる絵を描くことはもうない。とはいっても今年1月~6月は画業していないので、その間は絵を見る目を養っていたといえるかもしれない。

当ブログに何を期待して閲覧するのかは知らないが、余が牛のように図々しく、ゆっくりと上達していくのを見せられれば、見せたいと思う。

トゥイ活も、裏垢でちょこっとやったが、元々知名度ゼロであり、積極的にフョローもしてゆかないから、読者は極めて少ない。裏垢でも表垢でも他ユーザーに働きかけを一切しないから、ご覧の通りである。

もう一度言うが、余は画業において牛のように図々しく、ゆっくり上達している。本来ならば画業にどのような方向性を持たせるか、よく考えたり他ユーザーに相談すべきであるが、絵を描くこと、そしてその絵を鑑賞することは、麻薬のような作用を含んでいることに果たしてどれだけの人が気づいているだろうか。

かかる麻薬的作用は、全力で画業に向き合っていなければ、得ることができない。余も気まぐれにボールポイントペンでノートにスケッチすることがあるが、それもやはり全力である。余計な事を考えずに、一気呵成にやってしまう。まあ迷い線というものもあるが、それは鉛筆でノロノロやっている時に生まれる線である。余にはノロノロやっている時間は残されていないから、集中して一気にやらざるを得ない。

このページから飛ぶことはできないが、渋とかの投稿サイトで余の絵が今後変わっていくさまを目の当たりにできるであろう。そう遠い将来ではない。