前回のあらすじ

お話を考えつくのは、大変な時もあり、あっさりできる時もある。

吾輩は往時、お話を考えつくことにとても苦労したが、今はそれと比較にならんくらい容易になっている。

ただ、どんな設定・パターンの話でも思いつくかというとそうではなく、得意分野がどんなものか段々判明してきた。

苦手なのは、やはり普段親しんでいないタイプの話であり、少年・青年向けが特に顕著である。

自分の好む設定、キャラクター、ストーリーのパターンを、狭い範囲に固定してしまうのは良くない。ただ、好ましいと思う話、善い話こそを創製していきたいから、そう思えない話を作ることは困難というか、好ましくないと思っている。よほど業務によってあくせく働かねばならぬという事態にでもならなければ……。

まあそこいら辺の事情は、吾輩がネットのどこかで出品し続けている創作物をつぶさに眺めることによって明らかになるであろうが、このウェブログでは具体的な固有名詞を挙げないことで隠れ家的なものとしているのだから、吾輩の読者でここへたどり着く人はほとんどいないはずである。ちなみに当ウェブログは無料だけれど簡易アクセス記録がついており、閲覧数と閲覧されたページとリンク元だけが明かされる仕組みとなっているが、ご推察のように訪問者は少ないからそんな記録も毫も役に立ったことがない。

今のところ、継続している作品を継続しつつ、試行錯誤する中で新しいジャンルなどへ足を踏み出せればよかろうと思っている。

前回のあらすじ

吾輩の近年の業務への取り組みを省みると、製品の創製ペースが早まり、それに伴って生産量が増え、特段浮いた時間を無駄にするというわけでもないので、年間生産量の上限にほぼ達するようなペースで創製をしているといえるだろう。

どのくらいの生産量であるかは、計算機を叩けばすぐに分かる。まあページ数だけに意味があるのではないが、半ページや四分一ページという単位がないので1ページ2ページと勘定するしかない。

結局、アイデア次第であり、アイデアが次々浮かぶというよりは考えてひねり出すという感じだが、往時と比べれば、もう流れるように出てくる、と称しても過言ではない。

ただ思い浮かぶこと、普段考えること、それに多少の加工をして、アイデアという形に仕上げる。話を作るにはその話が自分にとって快であり善であると思えることが必要である。悪人を描くことはないが、設定によっては悪人を必然的に出すこともあるとは思う。

商業出版に関わっていくことは、夢物語だとは思わない。結局はそれに向かって全力投球する気になるかどうかという問題である。商業出版にはそれなりの文法があり戦略があり、吾輩が快や善と思うことどもを描写した作品が必ずしも出版の基準を満たすとは限らない。一枚ものの画に関しても、曾ては「あまり世間の流行に流されず、自分なりに試行錯誤して描き、失敗もして恥をかいて覚えていく」という方針であった。まあ、今は一枚ものの画に回せるリソースがやや乏しく、差分などのボーナスをつけて支援を募ることは中々できんと思っている。しかし継続画業で鍛えられるのは「眼」であり、自分の画を厳しい目で見て、その検閲を経て世間に出していくことの繰り返しとなる。

本来、自分の楽しみだけのために描くのなら、その厳しい目すら必要ではないのである。吾輩はそれよりも上の段階を目指しており(若干のマネタイズはすでにできている)、やはり出版ということで、一点の原稿が複製されて金となって帰ってくるのを待ち望んでいる。ダウンロード販売専門サイトでは寺銭も取られるが、商業出版の印税率を考えれば、全然比べものにならんくらい、手元に金が残るであろう。

あまり金々と言ってもしょうがないが、自分の作品が認められて快を感じられるのはやはり「売上」が生じた時であり、これのためにやっていると言っても言いすぎではないだろう。

前回のあらすじ

吾輩が業務を毎年開始するに際し(1月1日である)、当年の業務の売上高を目標として掲げている。

それは、年間で○万円、という些かスケールの小さいものであるが、業務をしていなかった頃に比べれば、それだけの売上を上げられるのは驚くべき進歩である。

本年頭にもこれこれの売上を目指す、と目標を立て、現段階(2023年12月期第3四半期末)に於いて目標をすでに達成したことが明らかになった。

余にとって、当該目標にかかる金額は、大きいものである。ただ通帳に入ったりするものなので、目の前にその銀行券を置いてニヤニヤするとか、そういうことはしていない。

ちなみに、毎年の目標は年ごとに「等差数列」で増えていくことを想定している。本来ならば「等比数列」と言いたいところだが、ちょっと厳しいので地味に等差数列で目標を立てている。

2023年12月期末には、これまでの9ヶ月に上げた売上の三分一ぐらいを加算できるよう、引き続き業務に邁進する所存である。

前回のあらすじ

物の整理というのは、古来より人類を悩ませてきた(?)。

まあ吾輩は紙類を整理する必要がよくあるのだが、ここんところは入手する紙類と、売却・廃棄する紙類が、まあまあ釣り合っているので幾分ましである。つまり古来より吾輩は紙を一方的に増やしてきたのである。

兎にも角にも、漫画に関しては悩みが尽きない。漫画を読んで参考するとしたら、どうせなら紙に印字されたものを読んで、隅々まで眺めたいと思う。ディジタルで小さくなっている漫画をブラウザで見てそれで満足というわけには中々ゆかない。

漫画も、ついでに活字も、本で買えば、要らなくなったらいずれ売却することができる。ディジタルデータではそういうことはできぬ。まあ今後死が近づくに際し、残す必要がない紙、残したくない紙などを次第に廃棄することとなろうが、技法書など何年もかけて発見したり探したりして手に入れたものは決して手放したくないと思う。

文学とか、評論を専攻する学者など、古来より本がぎっしり詰まった書斎に悩んでいるものだろう。ただ論文などはどんどんデジタル化されていて、書籍もデータで買うようになれば意外と物はかさばらない、という言い方もできる。

とまれ、漫画を参考にするには紙の本を読みたい。これだけは中々譲れないものなのだが……仕事場の広い狭いによって、本の扱い方、入手の仕方も変わってくるのは仕方ないことであろう。

ちなみに同人誌もできるだけ紙で買いたいし、棄ててしまったら二度と手に入らぬものがほとんどだろう(逆に言うとデータで買ってしまえば、管理をちゃんとすれば逸失することがないので安心である)。だから同人誌は慎重に吟味して買い、大事に保管するのがいいであろう。

前回のあらすじ

やっぱ自分の創作活動が認められるのが一番嬉しいことである。

商業デビューしていないので、同人レヴェルであれが何冊売れた、いくら売上が入った、というチマチマした活動であるが……。

まあ物によっては「これはもっと売れるべき」と思うものもあり、「せっかく作ったので販売してるけど、実力不足が露呈していて……」と恥ずかしく思うものもある。

世上では承認欲求という文言を目にしない日はないが(誇大な表現)、やはりいま現在の実力を込めて作った著作物が、対価という形で認められるのは新鮮なことであり、承認欲求が満たされる。

多分、吾輩としても、自作を見る目がもっと肥えてくれば、当該作品について「何冊ぐらいは売れるはず」と目測を立てることができるのだろうな。

様々なジャンルで、何十年も活躍している人らも、眼力が確かだったり謙虚だったりするなら、「自分などまだまだ」と思ったり発言したりするだろう。吾輩としては、応援している人があまり謙虚すぎてももったいないと思うが、作品そのものがまず雄弁に語っているのは事実である。

それはそうと、文芸雑誌のある記事を読んで、なんか自分でもちゃんと古典に向き合う必要があろうかと思い、ファーストガンダム映画のDVD全3巻を注文したのである。きっと様々な発見があるに違いない。

前回のあらすじ

「倫理」を題材にした、タイトルもそのものズバリの漫画のことを小耳に挟んだので、吾輩も読んでみようと思って取り敢えず1巻を購求した。

ところで吾輩は出版社サイトで漫画の試し読みを色々できることは承知をしているが、そういう試し読みは販促であって決して作品の核心に触れることはない、という気がしているのでほとんど利用しない。

当該「倫理」についてもどこまでロハで読めるのか、と気になるけれども取り敢えず1巻を読んで、なるほど、こういう雰囲気、というものがおおむね掴めたように思う。当該作品をどっかで立ち読みするとかしようかとも思うが(ドラマ化で売れて、中古にも流れ込んでいるものであろう)、先ずは1巻の内容を吾輩の創作態度と比較してみて、ああだこうだ考えたわけだが、公衆が読むウェブログに記載すべきではないと判断したためここには書かない。

やはり岡目八目といい、他人の描いた漫画のことは把握するのが割と容易いものであり、やはりそれは商売の作品であるから、出版元がブレーンとなって、より面白く分かりやすく、売れるようなものを創製していることを意味する。

吾輩が創作をする場合も、無論可能な限り分かりやすく、面白く、と目指してはいるが、「ここはこういう展開にしたら売れそう」という思いつきに対してはボツとすることが多い。職業道楽という言葉があるが、修正によって売れそうな予感がしていても、大事なのは自分のかきたい物を原稿紙にぶつけることだから、売れるとかはどうでもいいのだが、それでは銭にならんのが何とも悩ましいところである。

前回のあらすじ

これまで、人間の慾とか金銭とかについて網羅的に述べてきたのであるが、そのことについて若干付言しておく。

金銭によって叶えられる欲望は、商品が欲しい、女体が欲しい、とかの直接的な欲望である。これに対し、金銭を積んでも実現が六つかしい欲望というものももちろんある。まあ一説では、金銭が(充分以上)あるのなら、人生の8割のことは解決できる、と言われている。ここに言われているのは大体1億とかそれ以上の額を意味している。

例えば、友を得ること。友といっても悪友というのもあるし、うわべだけの友、真実の友、といったようにさまざまな段階があり、悪友を持つことは基本的に自分にも悪影響しか齎さないものである。真実の友と急にばったり出会うことはなく、ある程度以上の年月をかけて交流し、性格や趣味とか諸々の要素の組み合わせによって、真実の友となってゆくこともできる。

若人同士はすぐに友となることもできるが、老齢になって、あるいはものむつかしい人々は、快適さを優先するため、それを提供されない人と友になることは六つかしい。(これに関しては「ニコマコス倫理学」に書いてあるので詳しく参照されたい)

金銭との関連でいうと、ある程度の金持ちとか、あるいは金がないけれど金持ちの人に「師事」して仲間になりたいと願う人らとか、そういう者の集まるサロンみたいなものがある。吾輩はそういう集まりに全く関係がなく、またそういう会合で一体どういう交流がなされるのか想像するのも六つかしいが、吾輩が通常やっている業務を推進するための活動は、当該サロンではできないだろうと想像する。

そして、業務で成功するというのも、また金銭によって叶う類いのものではない。特に人気商売、芸事といったものは先ずファンがつかないとならぬし、飯を食うためにはそのファンから支持・支援されなければならんし、出版の胴元と関係を持つために、一定以上の実力を持つことを示していかねばならない。

一方、金銭を充分持っているのなら、それでもなお芸事をやりたければ好きなようにやればよく、対価も求めないとなればストレスもないだろう。ただファンというのは膏薬みたいに、たいていの芸事にくっつくものである。ただそれの多寡とか支援される度合いが異なるというだけで、本質的には芸事はそれを当人が随意に為すことが根本にある。つまり好きなように創製するのが一番いい、と言うこともできる。

吾輩は芸事に於いてどれだけ支持されているか、若干の数値データによってそれを知ることができるが、まあそんなに支持されてない部類に入るといえる。既述のように、金銭の力で支持を得ることはできぬから、芸事を極め上達すること、あるいは支持者に対してもの柔らかな態度をとること、といった対策が必要となる。

継続することこそ力、という物言いはあるが、結局これは時間の範囲をどうとるかによって解釈が変わってくるもので、例えば5年やったけれど支持が広がらなかったなら、「継続必ずしも力ならず」という結論になるだろう。一方、支持が充分広がるまで際限なく活動を続けるなら、結果的に「継続は力」となるであろうが、その際に当人が充分事理弁識能力を保持していて、健康であるなら万々歳、といったところだろうか。

そもそも一生涯をかけてやるつもりの活動で、短いスパンを区切って「継続は力」と言い切ることは浅はかなことである。不遜なことでもある。継続はしていくが、どういう結果になるかはふたを開けるまで分からん、というのが相当のところだろう。

動画配信者となって、収入を得て活動を回していく人も、動画の胴元の機嫌一つで簡単にBANされることもある……諸行無常である。