前回のあらすじ

自分に投資をすることは大事である。

何を投資するかというと、金銭や時間、学問や知識や物語、などが挙げられよう。

まあ思いつくまま書いてみたが、要するに「金銭や時間」は、吾人の可能性に働きかけるものである。金銭と時間があれば、学問や知識を体系的に身につけることができる。また、図書を繙読することで物語の種とかアイデアとか、人間に関する真理といったものを身につけることができる。

金銭や時間は使ってこそ価値があるものだが、学問や知識や物語には、それ自体として価値があり、それを身につけることで応用をしてさらなる高い価値を生み出すことができる、という二重の価値があるといえるだろう。

まあ漱石の「猫」にもアリストートルのエピソードとして、知識以上に価値の高いものはない、黄金の冠などもこれには及ばない、と語ったとされている。

そこで、自分へ投資をするとなると、勿論旨い食い物や女体なども金銭によって受け取ることができるが、これは一過性のものであり、消費してしまえば財産価値はなくなる。一方、学問や知識や物語、さらには画法などの技術は、長くその価値を保つものであり、身につけて、絶えず怠ることがなければ一生ものの伴侶となる。

自分への投資をせよ、と誰かにアドバイスされた時、まずは金を使うことを考えるものであろう。けだし、普段からなかなか自分への投資を積極的にしている者が多くなく、また、普段から自分のために金を消費している者はそもそも無意識的に、投資などと考えることなく実行しているものであろう。

金は有限であり、時間は平等に与えられた(無限の可能性をもった)ものであるから、投資するとなるとやはり一定の時間を区切って、何らかの習得に使い、価値ある技術を身につけることこそが最も望ましいと思われる。金を使うことはそういう価値のある時間を手にするために必要であり、また、たまには旨い食い物などで心を充たすこともできれば楽しいものである。旅行を趣味・生き甲斐とする者も多く、景色を見たり異国人と触れ合うなどの経験も財産となる。

自分への投資を渋るのは上述のように金が有限であるからだが、自分に投資してより良い人間になろう、という思いこそがまず必要である。