前回のあらすじ

人間はどのような環境にも慣れてしまうものである、という物言いは昔からある。

ドストエーフスキイの「死の家の記録」などを読んでも、なるほどあのような怖ろしい監獄であってもやはり慣れてしまえるものなのか、と得心がゆくであろう。

欲望には限りがない。金銭には限りがある。金銭の範囲内で欲望を満たすことが吾人のすることである。まあ低劣な快楽とか、観照的生活とか、色々なものがあるが(少々乱暴にまとめて)欲望の追求こそ生きる意味と言えるだろう。

金銭がいくらあっても叶わない願い、というものはもちろんある。金銭さえ支払えば充たされる願いもある。吾人は老後のためとか称して、金銭の支払いを可能な限り猶予しようとする。しかしこれは宜しくないことである。

金銭を沢山稼ぐことで、願いを叶える道が開ける。一方、欲望を制限することで静穏な精神状態を保って健やかに生きることもまた可なりである。

漫画家などは、叶えたいことを全て漫画の中で実現でき、大層安上がりな職業だと一部で思われている。漫画の売り上げなどに拘泥さえしなければ、自由に空想をして自由にそれを原稿用紙に叩きつけることができる。そのためには技術が必要である。

元々は、幼少期にそういった作品に多く触れて、そのうち一部の者だけが漫画を自分で描くことに喜びを見出す。さらにそのうちわずかな者だけが職業として画業を成立させているのである。

快楽関連でいうと、成人向け作品は今と昔で大きくその役割が変化しているといえる。かつては、グラヴィア雑誌やビデオの代替品であった。つまり現実的に映像化可能な光景が成人向け作品に描かれるものであった。

しかし、昨今の成人向けは、まあ吾輩も詳しくないから全部を明らかにすることはできないけれど、「快楽の追体験」という役割が生まれている。つまり当該作品の中の人物などと同一化して、興奮を味わう。快楽は(違法なものはあまり描写しないとして)、自然が与えた快楽、さらにそれにブーストをかけた強い快楽、というものが存在することを成人向け作品は表現し描写する。

まあ以前述べたように、漫画表現に於いて成人向け作品では「人間」が描写されない。描写されるのは肉塊であり、快楽の芽を持った肉塊である。成人向けだから、成熟した人間を深く描写すると思っては大間違いである。きっとそこには、読者が登場者の快楽を追体験するには登場者がなるべくカラッポでステレオタイプであればそれでいいという経験則みたいなのがあるのだろう。たしかに、一個の成熟した人格を見て、それに共感したりあまつさえ感情移入したりする能力が万人にあるとは到底言えない。

吾輩は、自分の精神年齢と同程度の女の子たちを描写することによって作品を形成している。当然、思い入れは強いし、自分を投影することはいつものことである。これこそを創作と呼ぶべきであって、成人向けの昨今の作品のようなものはうまく作れないし、又うまく作る必要もないのであろう。