前回のあらすじ

吾輩の近年の業務への取り組みを省みると、製品の創製ペースが早まり、それに伴って生産量が増え、特段浮いた時間を無駄にするというわけでもないので、年間生産量の上限にほぼ達するようなペースで創製をしているといえるだろう。

どのくらいの生産量であるかは、計算機を叩けばすぐに分かる。まあページ数だけに意味があるのではないが、半ページや四分一ページという単位がないので1ページ2ページと勘定するしかない。

結局、アイデア次第であり、アイデアが次々浮かぶというよりは考えてひねり出すという感じだが、往時と比べれば、もう流れるように出てくる、と称しても過言ではない。

ただ思い浮かぶこと、普段考えること、それに多少の加工をして、アイデアという形に仕上げる。話を作るにはその話が自分にとって快であり善であると思えることが必要である。悪人を描くことはないが、設定によっては悪人を必然的に出すこともあるとは思う。

商業出版に関わっていくことは、夢物語だとは思わない。結局はそれに向かって全力投球する気になるかどうかという問題である。商業出版にはそれなりの文法があり戦略があり、吾輩が快や善と思うことどもを描写した作品が必ずしも出版の基準を満たすとは限らない。一枚ものの画に関しても、曾ては「あまり世間の流行に流されず、自分なりに試行錯誤して描き、失敗もして恥をかいて覚えていく」という方針であった。まあ、今は一枚ものの画に回せるリソースがやや乏しく、差分などのボーナスをつけて支援を募ることは中々できんと思っている。しかし継続画業で鍛えられるのは「眼」であり、自分の画を厳しい目で見て、その検閲を経て世間に出していくことの繰り返しとなる。

本来、自分の楽しみだけのために描くのなら、その厳しい目すら必要ではないのである。吾輩はそれよりも上の段階を目指しており(若干のマネタイズはすでにできている)、やはり出版ということで、一点の原稿が複製されて金となって帰ってくるのを待ち望んでいる。ダウンロード販売専門サイトでは寺銭も取られるが、商業出版の印税率を考えれば、全然比べものにならんくらい、手元に金が残るであろう。

あまり金々と言ってもしょうがないが、自分の作品が認められて快を感じられるのはやはり「売上」が生じた時であり、これのためにやっていると言っても言いすぎではないだろう。